わたしは、レッスンを受ける時、
皿洗いのスポンジのようであった。
水を全部吸収するように、師ヴィーラントの言うことを吸収したかった。
または、まっさらなキャンバスであった。
真っ白なキャンバスに、これから色をのせて行くんだ、と。
日本人またはアジア人的な学びの姿勢であったと思う。
その日は、両親がユダヤ系ハンガリー人で、
フランス育ちのジェローム君が、
そのとき住んでいたローマから久し振りにレッスンにやって来た。
ジェロームが弾く。
ヴィーラントがお手本を見せようと、弾きだす。
ジェロームは聞かずに弾き続ける。
ヴィーラントも弾き続ける。
とうとう曲の最後まで二人で一緒に弾き続けた。
わたしは、あきれた。
どっちか、弾くのを止めるでしょ?普通、と。
その後、ふたりは大人同士のような会話をしてレッスンを終わった。
わざわざローマから何をしにきたんだ?と思った。
このように、すでにキャンバスにデコデコに絵を描いて
レッスンに来る生徒はたくさんいるが、
これはすごいなと思った。
この数年後に
この二人とジェロームの弟でチェンバロ奏者のピエールくんと
4人で東欧のツアーに行った。
ちょうどボスニア戦争の終わった頃だったか、
まだ東欧は貧しい国が多く、
国境は移動する人たちの列が延々と続いていた。
そこに混じって移動するわたしたちの車の座席にもクッションがなかった。
鉄丸出しと言うのか。
さて、ヨーロッパでは、男女の控え室が一緒である。
わたしは紅一点だったし、先生も一緒だったので、
大抵トイレに行って着替えていた。
しかし、ルビアナだったかザグレブだったかのラジオ局で、
トイレに行ってみると、トイレの便器から噴水のように
水が2メートルぐらい吹き出ていて、
とても着替えるどころではない。
仕方なく、控え室に戻って来て、
ニッポン女子のワタクシが編み出した、
下着を見せずに着替える方法で必死に着替えていたら、
親切なジェロームがわたしの周りをブンブンと回って、
手伝おうか?と何度も聞いてくれる。
しかし、<脱ぎながら同時に着る>に健闘中のわたしは、
ふがふが、と答えていた。
その時、ヴィーラントが、
「手伝うっていうのを一番やって欲しくないんだと思うよ」
と言って下さり、
やっと静かに着替え終えることができた。
このように外国で鍛えられる中、
ヴィーラントはしばしば、日本的な振る舞いの人であった。
時々、フラマン人の女の子といると、
やまとなでしこって、こういう感じだろうなと思う。
しかし「日本人とフラマン人て、何か奥ゆかしい共通点があるのかな」
と言うと、
わたしの父はオランダ人である、などとへそ曲がりなことを言うのが、
ヴィーラントであった。
(お母さんがフラマン人)
そのツアーからの帰りに、スイスの航空会社のセスナ機に乗った。
アルプスの山合いをすれすれに飛ぶ航路で、
眺めが素晴らしかったし、乗客が私達4人だけであった。
その時の食事に出て来たナイフをこっそりもらったら、
ヴィーラントが自分の分も持たせてくれた。
さすがスイス、持ち手のところが本物の銀であった。
写真は一枚も撮らないツアーだったが、
今もその銀のナイフを毎日朝食の時に使っているので、
こんなエピソードを覚えているのである。